「反省」という言葉は呪文ではない。
「反省、反省」といくら口先だけで唱えていても、それで何かが
改善するという話ではない。
むしろ、軽々しく「反省」を口にする者ほど、真の反省からはほど
遠い傾向があるのではないか。先の大戦を巡る昭和天皇の「反省」の中身を探る手掛かりの一つが、
終戦当時、昭和天皇の侍従次長だった木下道雄氏の
「聖談拝聴録原稿(木下のメモ③)」(木下氏『側近日誌』所収)に見える。「我が国の国民性に付いて思うことは付和雷同性の多いことで、
これは大いに改善の要があると考える。
近頃のストライキの話を聞いてもそうであるが、共産党の者が、
その反対者を目して反動主義者とか非民主主義者とか叫ぶと、
すぐにこれに付和雷同する。
戦前及び戦時中のことを回顧して見ても、今の首相の吉田(茂)のように
自分の主義を固守した人もいるが、多くは平和論乃至(ないし)親英米論を
肝に持っておっても、これを口にすると軍部から不忠呼ばわりされたり非愛国者の
扱いをされるものだから、沈黙を守るか又(また)は自分の主義を捨てて
軍部の主戦論に付和雷同して戦争論を振り廻(まわ)す。
かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難だった一つの
原因であった。
将来この欠点を矯正(きょうせい)するには、どうしても国民の教養を高め、
又宗教心を培(つちか)って確固不動の信念を養う必要があると思う」戦前・戦時中に「非愛国者」を糾弾していた同じ人物が、
戦後はクルリと態度を変えて「非民主主義者」を弾劾する。
しかし、その「付和雷同性」だけは変わらない。
そんな光景を、果たして今の日本人は昔話と笑って済ませる事が出来るだろうか。
昭和天皇が「落ち着きのない」と嘆かれた「国民性」は、いくらかでも「改善」
されただろうか。【高森明勅公式サイト】
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